t-1 try 2014/03/08 T−1お試し歩き

年内公開予定のT−1(豊後高田市−1)区間の確認会を豊後高田グループの主催で開催した。
午前8時半、T−1区間終点の、豊後高田市西叡山高山寺駐車場に集合。ここから車に乗り合わせて、出発点の豊後高田市熊野の熊野磨崖仏へ向かう。

挨拶と本日の予定他を説明する日浦隊長。
 8時35分
熊野磨崖仏下の駐車場に車を停めて、磨崖仏へあがる。う〜ん、出発点は駐車場にしないと、駐車場から熊野社までは結構な距離とエネルギーが必要・・・と思いながら、鬼が一夜で築いたと云われる乱れ積みの石段をのぼった。

料金所から鳥居までの擬木の階段が歩き辛いのにくらべ、鬼が積んだ石段は歩きやすい。
 9時2分




熊野神社 9時26分
磨崖仏までのぼったが、やはり熊野社にお参りして・・と言う事で、石段をもうひと登りし、今日の安全をしっかりお願いしました。

この社は、磨崖仏のすぐ上にあり、熊野三山の祭神である神々を祀る。主祭神は家津美御子(けつみみこ)・速玉・牟須美(ふすび、むすび)。
三山の本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると云われ、平安時代以降、熊野全体が浄土の地とみなされるようになった。その祭神が飛んできた宮と伝えられる。
熊野磨崖仏 9時29分
ここが予定してていた出発地点です。岩壁に不動明王と大日如来像が半浮き彫りにされています。峯入りでは、ここで護摩焚きをします。

はっきりした上半身、岩に溶けたような下半身、偶像崇拝の仏と形を持たない神を表しているとか?また、この像から大日を示すものは無く、如来像と説明するのがイイかも?頭の上には曼荼羅が刻まれている。

平安時代末期の作と云われ、国の重要文化財に指定されている。


磨崖仏前に並んだ今日の参加メンバーです。
会長さんの挨拶、説明の後、それぞれ自己紹介をしました。


熊野磨崖仏管理委員会発行パンフレット転記


【大日如来像】

全身高さ六・八米、脚部を掘って見ると石畳が敷かれ、地下に脚部が埋没しているのではなく半立像であり、尊名は大日如来と云われているが、宝冠もなく印も結んでいないので薬師如来ではないかとみるむきもあるが、やはり大日如来の古い形ではなかろうか。

頭部の背面に円い光背が刻まれ面相は頬張った四角い顔にとぎすました理知の光と思想の深みが感ぜられ、、森厳そのものであるが、また慈悲の相も感ぜられる。

【不動明王像】

総高約八米、大日如来と同じく半立像で下部はあまり人工を加えていない。
右手に剣を持ち、巨大且つ雄壮な不動明王であり、左側の弁髪はねじれて胸の辺まで垂れ、両眼球は突出し鼻は広く牙をもって唇をかんでいるが、一般の不動らしい忿怒相はなく、かえって人間味ある慈悲の相をそなえており、やさしい不動様である。

【種子曼茶羅】しゅじまんだら

円形頭光の上方に三面の種子曼茶羅が隠刻されており、中央を理趣教曼茶羅、右方を胎蔵界、左方を金剛界曼茶羅と云われて、修験道霊場であったことが証明される。

 【脇童子】

不動明王の両脇に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制咤迦童子(せいたかどうじ)が刻まれてあるが剥離崩壊がひどく存在が認められるのみである。

【神 像】

不動明王左脇侍像の外側に高さ一・五米ほどの方形の龕が二つ刻まれており巾子冠を戴き袍を付ける男神像の存在が認められる。この地が熊野神社境内であることを思えば、この二躯は家津御子(ケツミコ)、速玉(ハヤタマ)の二神と想像され右方の崩れた処にも夫須美神が刻まれていたものではなかろうか。

【熊野権現の祭典】

旧正月二十八日、九日と旧六月一日が例祭であり、六月の祭は紀州熊野からお迎えした日で、お供えが間にあわなくて、いそいで小麦粉をフルイにかけずそのまま団子にして供えたので、今でも同じように造られた団子を供え、かわりに神前の団子と取りかえて帰っていただくと、子どもは元気で育ち一家は無病息災、商売は栄えるので多くの参拝者がある。

鬼の築いた石段

紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。
その時、何処からか一匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが恐しくてできなかった。
然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」と云われた。

権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけられたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から石を探して運び石段を築きはじめた。

真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞えるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。
権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう、何んとかしなければとお考えになり声高らかに、コケコウー口と鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はあわてて「夜明けの鶏が鳴いた。もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走り、一里半(六キロ)ほど走ってやっと平地に出たが息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないのでそこを立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。

鬼はそのまま倒れて息が絶えた。これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮しが出来る。
これも権現さまのおかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった。


鬼の石積みの階段を下ります。

境内地内の集落を下ります。(下の鳥居まで境内地)


この下の右手に、「法螺が石」と呼ばれる石があったんですが、落ちた?
法螺が石とは、峯入りの時、僧侶が片足をこの石に掛けて法螺を吹く場所です。
参道を下って、鳥居を下から旧道へと進んだが、昨日の雪の影響で折れた竹が道を塞いでいる。皆で折れた竹を片付けながら進む道を確保する。・・正規公開ルートより除外扱いとする。
私は、鳥居下へ戻って、県道を歩きGPSにルート記録する。


ここに今日のルートを示そう。この後、真木大堂を経由し、夕日朝日の観音様にお参りし、田染荘の真ん中あたりにあるほたるの館で昼食をとり、空木(ウツギ)集落をのぼって高山寺へ向かいます。